傷痍軍人を見た幼い記憶 ― 「努力できる幸せ」に気づくまで
私が小学生の頃、神社の祭りにはいつも傷痍軍人が施しを求めていました。
大体3人組で、2人が四つん這いになり、1人がアコーディオンを弾いていました。
父は私にこう言いました。
「奴らは国からお金が出ていて、生活はできている。酒代が欲しくてやっているんだ」
幼い私は、その言葉を鵜呑みにするしかありませんでした。
しかし、大人になってからも、その光景と父の言葉がずっと心に引っかかっていました。
努力が足りない、という一言の裏にあるもの
「怠けている」「努力が足りない」と突き放す人がいます。
けれど、人生には、努力することの楽しさすら知らずに大人になる人もいます。
たとえば、戦争や貧困、病気、心の傷――そうした背景の中では、
“努力する”こと自体が、もう苦痛でしかない人もいるのです。
確かに、努力や工夫が好きな人は、物事に粘り強く取り組み、結果を出しやすいでしょう。
けれど、その「努力を楽しめる力」こそ、実は恵まれた才能なのだと思います。
努力できること、それ自体が幸せ
戦争で身体だけでなく精神まで傷ついた人々は、
“努力する喜び”を取り戻すことが難しかったのかもしれません。
憲法で保障されている「基本的人権」は、まさにその尊厳を守るためにあると感じます。
私は今、「人間、生きている限り努力し続けなければ意味がない」と本気で思える。
そう思える自分は、きっと恵まれているのだと思います。
努力できること――それ自体が、幸せの証なのかもしれません。
