最近、知り合いが60歳前後で亡くなりました。その知らせを受けるたびに、私は自分の叔父の最期を思い出します。叔父は55歳で亡くなりましたが、親族の中で、病室で最後に会ったのが私でした。
記憶に残る最期の光景
その時の叔父は、ドラマのように何かを言い残す余裕もなく、ただ激しい息遣いの中にいました。死を覚悟して静かにその時を待つ、というような状態でもありませんでした。ただ現実として、命が尽きようとしている姿がそこにありました。
死因についても、どこか釈然としないものがありました。鹿の生肉を食べたことが原因となり、菌を抑えるための強い薬が肝臓に負担をかけ、結果的に命を縮めてしまったのです。
静かに終わっていく人生への違和感
叔父は独身でした。葬儀までの流れは淡々と進み、大きな波風もなく全てが終わりました。その様子を見て当時の私は、「人の死とは、こんなにも静かに、何事もなかったかのように終わっていくのか」と強い違和感を覚えました。
もし妻や子供がいれば、少しでも不審な点があれば徹底的に調べ、感情も大きく揺れ動いたかもしれません。しかし現実は、驚くほど淡々としていました。それが余計に、叔父の存在が軽く扱われているように感じられ、どこか寂しさを覚えたのです。
生き方とリスク—日常の積み重ね
叔父も、私の父も、毎日お酒を飲むタイプでした。酒は飲めば気分が良くなり、日々の楽しみにもなりますが、長い目で見れば寿命へのリスクも確実に存在します。若い頃は気にしなかったことも、年齢を重ねるにつれ現実味を帯びてきます。
麻酔で感じた「虚無」という感覚
65歳にもなると、様々な検査や手術で全身麻酔を経験することもあります。周囲には冗談交じりに「死ぬ練習だね」などと言う人もいますが、実際に体験すると全くそんな軽いものではありません。
どれだけ意識を保とうとしても、数秒後には「スッ」と意識が消えます。徐々に遠のくというよりも、本当に突然「プツッ」と切れる感覚です。そこにはドラマのような演出も、客観的に自分を見る余裕もなく、ただ「虚無」があるだけです。
限りある命をどう捉えるか
人はある日突然、その「虚無」に入る可能性があります。だからこそ、日々の時間を当たり前と思わず、噛みしめて生きることが大切なのだと感じます。
人生の終わり方は選べないかもしれませんが、生きている今この瞬間の積み重ねは、自分自身で選ぶことができます。何気ない日常こそが、後から振り返った時に大切な意味を持つのかもしれません。
