豪傑=大酒飲み?――歴史と映像が作ったイメージを考える

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昔から、ひとつ疑問に思ってきたことがあります。

歴史上の人物の描き方です。豪傑と呼ばれる武将や英雄は、なぜか大酒飲みとして描かれることが多い。

豪胆で、器が大きく、酒を豪快にあおる姿。まるで「たくさん飲めること」が強さや男らしさの象徴であるかのようです。

なぜ「豪傑」と「大酒飲み」は結びつくのか

体内にアルコールを大量に入れることが、そんなに偉いことなのか――昔から不思議でした。

もちろん、仲間と協調し、輪を大切にし、戦勝の後に酒で気持ちよくなる。そうした場面は理解できます。酒が人と人をつなぐ潤滑油になることもあるでしょう。

しかし、それと「豪傑」という評価が直結する理由は、どこにあるのでしょうか。

粋がった末の現実

俳優の秋野太作さんがトーク番組でこんなことを話していました。

「昔、俺はこんなに酒が飲めるぞ〜と粋がっていた奴達が体を壊しているのを聞くと、ざまあみろ、と思ってしまう」

少々辛辣ですが、本音も含まれているのでしょう。

若い頃に無理をして飲んでいた人が、年齢を重ねて体を壊す。現実にはよくある話です。

戦乱と酒の関係

映画やテレビの世界では、明日も分からぬ命、恐怖を払拭するために毎晩大酒盛り――という描写もあります。

戦国時代や任侠の世界など、極限状態の中で酒に頼る姿はドラマとして分かりやすい。

酒をあおることで不安を振り払い、仲間との結束を強める。そうした演出が、「豪傑=酒豪」という図式を強化してきたのかもしれません。

体質という現実

しかし、アルコールを分解できる能力は遺伝的な体質にも大きく左右されます。

強い人もいれば、弱い人もいる。それは意志や根性の問題ではありません。

西洋人はアルコール分解能力が高い人が多いと言われ、酒盛りでも最後まで酔いつぶれないイメージがあります。

体質の違いを無視して、「飲める=強い」とするのは、少し乱暴な考え方にも思えます。

酒豪が持つイメージ

相撲取りやプロレスラーなど、体格の大きな競技者でも、酒飲みは豪傑の分野に数えられがちです。

酒豪は、最後まで凛として場を守り抜く――そんなイメージがあるのでしょうか。

酒の席での連帯感や一体感、場を仕切る統率力。そうした要素が「豪傑」という言葉と結びついているのかもしれません。

身近にあった酒のある日常

私の父も叔父も、休日は朝から酒を飲むタイプでした。

それが特別なことではない時代だったのだと思います。

一方で私は、車でない外食の時に、食事メニューに合わせて数杯飲む程度です。

大酒飲み=格好良い、というイメージは、私の中にはありません。

これからの映像表現はどうなるのか

この先、若い人が観る映像表現でも、大酒飲みは豪傑として描かれ続けるのでしょうか。

時代は確実に変わっています。健康志向が高まり、飲酒量も減少傾向にあると言われます。

「強さ」や「器の大きさ」の象徴が、酒の量で測られる時代は、少しずつ終わりに向かっているのかもしれません。

豪傑とは何か。本当の強さとは何か。

酒ではなく、節度や自己管理にこそ価値を置く時代が来ても、不思議ではないと思っています。