- 小さい頃から身につけた「感覚」は強い
- 弟は5年ほどタンゴとサルサを続けている
- 173cmという体格は、ペアダンスでは使いやすそうだった
- 技術ではなく「美しさ」が気になった
- 女性と向き合っているのに、どこか「組手」に見える
- 「もっと練習する」だけでは解決しないことがある
- 努力が足りないのではなく、努力する方向が違う
- 私にも、仕事で同じような経験があった
- センスの難しさは「本人には見えない」こと
- 生活の中に「美」を見る習慣があるか
- 同じヨーロッパ旅行でも、見るものは人によって違う
- 結局「何を見るか」がセンスを作る
- スポーツも、幼い頃からの土台が強い
- では、大人になったら手遅れなのか
- 弟が「美しさ」に気づいた時、急に変わるかもしれない
- 後から身につけた人は、良い指導者になれる
- 技術の先にセンスがあると分かるまで、長い時間が掛かる
小さい頃から身につけた「感覚」は強い
私は最近、小さい頃から身につけてきた感覚というものは、やはり大きいのだと思うようになりました。
知識や技術なら、大人になってから勉強することができます。
知らなければ調べればいいし、できなければ何度も練習すればいい。
しかし世の中には、それだけではなかなか身につかないものがあります。
美しさ、優雅さ、気品、バランス、間、流れ。
こうしたものは数値で測ることができず、正解も一つではありません。
そして何より難しいのは、本人が「何かが足りない」と気づかなければ、練習する対象にすらならないことです。
弟は5年ほどタンゴとサルサを続けている
私の実弟は、もう5年ほどダンスレッスンに通っています。
タンゴやサルサなどのペアダンスです。
弟はかなりの努力家です。
ステップなども十分に練習していますし、人から何かを指摘されれば、さらに練習して克服しようとします。
その努力については、私も大したものだと思っています。
ある時、弟に呼ばれて、私たち夫婦でタンゴの発表会を見に行きました。
173cmという体格は、ペアダンスでは使いやすそうだった
弟の身長は173cmほどで、日本人男性としては比較的平均的な体格です。
発表会では何人かの女性とペアを組んでいましたが、相手が変わっても身長差のバランスは比較的取りやすそうに見えました。
ステップも覚えています。
動きも間違えているわけではありません。
長く練習してきたことも分かります。
ところが、しばらく見ているうちに、私は別の部分が気になり始めました。
技術ではなく「美しさ」が気になった
私が感じたのは、ステップの問題ではありませんでした。
ペアダンスに必要な、女性を引き立たせるような所作。
二人が一つになって流れていくような美しさ。
そして、タンゴという踊りに必要なエレガンスです。
個々の動作はできているのに、それらがつながった時の「美」が、まだ十分に出ていないように私には見えました。
先生や上級者の女性からも、弟は上体の硬さを指摘されることがあるそうです。
しかし私は、単純に身体が硬いという問題だけでもないように感じました。
女性と向き合っているのに、どこか「組手」に見える
私たち兄弟は昔から、柔道や空手のような格闘技に縁がありました。
そのせいなのか、弟が女性と向き合った時、時々「組手」のような力強さを感じるのです。
相手をしっかり捉える。
正確に動く。
自分の動きをきちんと決める。
それ自体は悪いことではありません。
しかしペアダンスでは、正確に動けば美しく見えるとは限りません。
自分が目立つのではなく、女性を美しく見せる。
力を入れるのではなく、時には力を抜く。
動くことだけではなく、止まっている瞬間まで含めて美しく見せる。
そう考えると、格闘技とは身体の使い方だけでなく、相手との関係の作り方そのものが違うのでしょう。
「もっと練習する」だけでは解決しないことがある
ここが非常に難しいところです。
弟に「上体が硬い」と言えば、おそらく一生懸命その改善練習をするでしょう。
努力家だからです。
しかし、「もっと優雅に」「もっと女性を引き立たせて」「全体の流れを美しく」と言われた場合はどうでしょう。
これは筋力トレーニングのように、100回やれば身につくというものではありません。
そもそも本人の中に「優雅とは何か」「美しい動きとは何か」という基準がなければ、何を練習すればよいのか分からないからです。
努力が足りないのではなく、努力する方向が違う
これは、努力を否定する話ではありません。
むしろ弟は、人一倍努力しています。
問題があるとすれば、努力の量ではなく、努力する方向なのだと思います。
ステップをさらに100回練習するより、上手なダンサーが女性をどう扱っているのかを100回観察した方が良い段階がある。
足の動きを見るのではなく、背中を見る。
手を見る。
視線を見る。
女性との距離を見る。
歩き出す前の姿勢を見る。
そうやって初めて、技術とは別の世界が見えてくるのだと思います。
私にも、仕事で同じような経験があった
私自身、かつて美的な感覚を必要とする仕事をしていました。
だからこそ、弟が今置かれている状況が何となく分かります。
私も現役時代、「努力すれば何とかなる」という世界だけではないことに何度も直面しました。
技術を覚えることはでき、作業の速度も経験によって上がります。
しかし最後に問われるのは、
「どちらが美しいと思うか。」
「どこに置けば気持ちよく見えるか。」
「何を削れば洗練されるか。」
という感覚だったりします。
ここには、単純な正解がありません。
センスの難しさは「本人には見えない」こと
技術不足なら、本人にも比較的分かります。
できなかった技ができるようになれば、成長したことが分かります。
ところが感覚の問題は、自分自身では気づきにくい。
美しいと思っているものが、他人から見ると美しくないこともあります。
逆に、本人が何気なくやっていることに、とても良いセンスが現れている場合もあります。
だから、美的な世界では「見る力」が非常に重要になります。
作る技術の前に、良いものとそうでないものを見分ける目が必要なのです。
生活の中に「美」を見る習慣があるか
こういう感覚は、ダンスのレッスン時間だけで育つものでもないと思います。
例えば、自宅の部屋をどう整えるか。
家具をどこに置けば空間が美しく見えるのか。
服を選ぶ時に、単に高い安いではなく、色や形、全体のバランスを見るか。
レストランへ行った時に、料理だけではなく店員の所作まで見るか。
日常生活の中には、「美」を学べる材料がいくらでもあります。
しかし興味がなければ、目の前にあっても見えません。
同じヨーロッパ旅行でも、見るものは人によって違う
例えば東ヨーロッパを旅行したとしても、人によって見てくるものは全く違うでしょう。
ある人は歴史的な建築を見る。
ある人は街の色彩を見る。
ある人はレストランでの紳士淑女の所作や、男性が女性をエスコートする姿を見る。
高級店へ入れば、料理だけではなく、客の服装、姿勢、店員との接し方まで観察する人もいます。
一方で、
「あそこのメシはうまかった。」
「ヨーロッパは美人が多くてスタイルが良かった。」
「移動が疲れた。」
というところだけを記憶して帰ってくる人もいるでしょう。
どちらが旅行として正しいという話ではありません。
重要なのは、同じ場所へ行って同じ景色を見ても、人によって受け取る情報がまったく違うということです。
結局「何を見るか」がセンスを作る
私は、美的な感覚というものは「何を見るか」の積み重ねなのではないかと思っています。
子供の頃から音楽を聴いてきた人。
絵を見てきた人。
良い建築に興味を持ってきた人。
服が好きだった人。
人の所作をよく観察してきた人。
そういう長い蓄積が、大人になった時に「何となくこちらの方が美しい」と瞬間的に判断する感覚につながっていくのでしょう。
本人にとっては感覚的な判断でも、その後ろには何十年分もの経験が隠れています。
スポーツも、幼い頃からの土台が強い
これは美的な世界だけではありません。
スポーツでも、幼い頃から作られた土台が有利に働くことは多いと思います。
現代の競技スポーツでは、トップレベルを目指すほど、かなり早い時期から競技に触れている選手が珍しくありません。
長い年月の中で、技術だけでなく、身体の使い方や競技特有の感覚まで身につけていくからでしょう。
美的な感覚にも、それと似たところがあるように思います。
では、大人になったら手遅れなのか
私は、そうは思いません。
ただし、大人になってから身につける場合は、子供の頃とは違う方法が必要になると思います。
自然に身につかなかったのなら、意識的に見るしかありません。
人から忠告された時に、単に「もっと練習しよう」と考えるのではなく、
「この人は、私の何を見てそう言ったのだろう。」
と考えてみる。
そして自分とは違う感覚を持っている人の意見を、一度頭の中に入れてみる。
上手な人を観察し、真似をして、違いを考える。
そうやって模索していくしかないのでしょう。
弟が「美しさ」に気づいた時、急に変わるかもしれない
私は、弟に能力がないとは全く思っていません。
むしろ努力する能力は非常に高い。
だからこそ、ある時「技術だけではない」ということに本人自身が気づけば、そこから急に変わる可能性があると思っています。
今までステップに向けていた観察力と練習量を、姿勢、流れ、女性の見せ方、優雅さへ向ければいい。
ただ、そのスイッチだけは他人が無理やり押すことができません。
感覚の世界では、本人が「そういうことだったのか」と気づく瞬間が必要なのだと思います。
後から身につけた人は、良い指導者になれる
そして私は、もう一つ面白いことがあると思っています。
子供の頃から自然にできてしまう人は、「なぜ自分ができるのか」を説明できないことがあります。
「こうすればいいじゃない。」
本人には、それで終わってしまいます。
しかし、大人になってから苦労して感覚を身につけた人は、自分がどこでつまずいたのかを覚えています。
何が分からなかったのか。
どんな説明で理解できたのか。
何を見た時に、自分の中で感覚が変わったのか。
それを言葉にできます。
そういう人は、むしろ指導者に向いていることがあります。
弟も、もし技術の先にある「美しさ」を自分なりにつかむことができたなら、将来は良い指導者になるかもしれません。
技術の先にセンスがあると分かるまで、長い時間が掛かる
若い頃は、技術がある人を見ると「上手い」と思います。
経験を重ねると、今度は技術だけではない部分が見えるようになります。
上手いけれど、美しくない。
派手な技術はないのに、なぜか目が離せない。
そんな違いが少しずつ分かるようになります。
私自身、「技術よりもセンスが重要になる世界がある」と本当に理解するまでには、30年くらい掛かったような気がします。
そしてセンスとは、生まれ持った才能だけを意味するのではないのでしょう。
長い時間をかけて何を見て、何に心を動かされ、何を美しいと思い、どんな人の言葉を受け入れてきたか。
その膨大な積み重ねが、最後には「感覚」という短い言葉で表現されているだけなのかもしれません。
技術は練習できます。
しかし、その技術をどう使えば美しくなるのか。
そこに気づいたところから、本当の意味での「上手さ」が始まるのだと思います。
